(株)松井ニット技研

道しるべ

ある日テレビのスイッチを入れると、画面いっぱいに色鮮やかに華やかに縦に流れる縞模様のマフラーが写っていた。チャイコフスキーの旋律のように、流麗であった。西洋的でありながらも十二単のような色合い、品性が溢れていた。NHKBSの「イッピン」という番組である。コロナ禍の2020年の暮のことである。

 手に取って触れてみたい衝動にかられる程に、その美しい色と共に素材感のリアルさが伝わってきた。しかし西日本では倉敷の大原美術館のミュージアムショップにしか、なかった。絶妙の色合いに魅せられた私は、先の見えないコロナ禍の中で色のエネルギーを感じ、希望を見た。

そのマフラーを創っている会社は群馬県桐生市にあった。時代遅れのアウトローだという日本に数台しかないという低速ラッセル機が活躍していた。ゆっくりとしか動けないからこそ、ロースピードで、ローテンションで丁寧に創られているという。糸を引っ張らないで柔らかく編むからこそ、ふんわりとした優しさと手作り感が出るという。低速ラッセル機が、技術者の微妙な手作業に誘われて反応するためであろう。人と機械のベストマッチであり、経営者と8人の技術者のハーモニーである。これこそがこの会社の強みであり、唯一無二の所以である。

来し方

遡ること119年前の明治37年、創業者・松井仙太郎氏の事が、国立国会図書館の資料に記載されている。「尚氏は革新的な頭脳を有し、唯々として一成功に甘せず常に先駆者として時勢の赴く所を察し研究に努むる。進取的気性に充ちた実業家であり、人格の美を證して余りあるものなり。」と記されていたのである。その気風と家風は父、母、兄、そして現社長に、会社経営の礎となり、理念として、無言の行として脈々と受け継がれてきたのではないかと拝察する。業績とは別に行間から滲む、不思議な感慨は、この「来し方」にあったのではないかと伺える。


繊細な編物を作る低速ラッセル機を導入したのは、1953年(昭和28年)頃である。現社長の母が決めたのである。その頃の時代背景は、岸恵子佐田啓二の「君の名は」の映画が大ヒットした頃であり、岸恵子演じる氏家真知子の頭からかぶるストール真知子巻が、大ブームであった。そのブームに着眼したのは、先代社長で兄の松井智司氏である。繊細でレトロ風なフランス製のストールと、導入した低速ラッセル機が「君の名は」の真知子巻ブームによって運命的な出会いとなり、松井ニット技研のマフラー創りが始まったのである。

1970年代に入り、優れたDCブランドとの協業が始まる。そのDCブランドとは「コムデギャルソン」であり「ヨーガンレール」他有名ブランド数社である。この優れたDCブランドとのお付き合いで技術的センスが磨かれ、現在の「松井ニット技研」のマフラーとなったという。
 又同じ頃、桐生市出身のテキスタイルデザイナー新井淳一氏に誘われ、ヨーロッパへの視察旅行に出かけた先代社長 松井智司氏は、パリの美術館でロシアの画家カンディンスキーの作品に魅せられる。その絵から受ける、衝撃と感覚が、カラーリングの基礎となり今のマルチカラーマフラーになったという。これらの出会いによって西洋的でありながらも、日本の十二単のようでもある、中間点の色合いを生み出したのである。その探求は今でも続いている。

 その後ニューヨークの誰もが知っている美術館、ミュージアムショップで売上1位を5年間達成した。その快挙は、世界の名だたる美術館のキュレーター達を虜にし、スペインのプラド美術館や、イギリスのコートールド美術館などに波及していった。当時の「日経ビジネス」誌では、「隠れた世界企業」とタイトルを飾っていた。又勤勉な取り組みやニット製品の国際展開が国の繊維産業活性化に寄与したと「経済産業省」や「関東商工会議所」などに表彰された。